
「愛する愛」こそ創造的な愛
エーリッヒ・フロムの愛についての考え方
愛はどのようにすれば手に入れることができるのでしようか?
わたしたちは愛されたいと望んでいます。そのために、愛される自分になろうと努力するでしょう。好きな人にいかに自分を魅力的と感じてもらえるか。愛される自分を作りあげれば、愛は手に入るかもしれないと思えるからです。
そして、自分を愛してくれる相手が見つかって、自分もその相手を気に入れば、求めていた愛は手に入ると期待されます。ただ、多くの女性が愛することよりも、愛されることの方に強い関心を抱いています。
けれども、愛には「愛すること」と「愛されること」があります。ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは、「愛とは愛されることよりも、愛することの問題である」といっています。そして、愛するということはそう簡唯なことではないと。
自分に愛される資格はあるのだろうか?
子供のときには無条件に愛が与えられます。幼児は母親(ないし、母親に代わる養育者)から、授乳やおむつの取り替えなど、十分に世話をされることによって、自分が愛されているという感じを持つようになります。
子供はあるがままの姿で愛されていると感じます。本来、子供が母親から愛されるために、自分がしなければならないことは、何一つないのです。
母親はその子が自分の子供であるというただそれだけの理由で無条件に愛します。母親の愛は無償であるといわれるゆえんです。
(現実には自分の子供を愛せない母親もいることでしょう。昔は親による虐待など、日本ではありえないだろうと考えられていましたが、子供を虐待する母親もいます。もっとも、母親がわが子を虐待する場合は、実の夫や子供とは血のつながらない内縁の夫などから、自身も虐待を受けていることが多いようです)
子供は八歳から十歳ごろまでは、ただただ愛される存在であって、そのころから次第に、愛の観念を発達させていくことになるそうです。愛するということについても、理解し始めるというわけですね。
。
とはいえ、誰もが大人になってからも、無条件に愛されることを望んでいます。ありのままの自分を受け入れられたいと願っているのです。
仮に、愛されることに資格が必要だというのであれば、自分にその資恪があるのかどうか、いつも不安な状態でいなければなりません。人は誰もが愛されることを望みながら、自分が愛してほしい相手を満足させていないのではないか、愛が失われるのではないかと、小安につき動かされることがあり、相手に気に入られるように振舞ったり、相手を喜ばすような働きかけを行ったりしているものです。
こうして愛される自分なろうとすることで、かえって愛の本質を見失ってしまう場合があります。
創造的愛…愛は学ばなければならない
幼児のときの愛は、「わたしは愛されているがゆえに愛する」という原則に従っています。これに対して、成熟した愛は「わたしは愛するがゆえに愛される」という原則に従うことになります。後者の「愛する愛」は、創造的愛と呼ばれています。
愛を手に入れるためには、愛する能力が必要になってきます。「愛することは誰にでも簡単にできるように思われているが、それは間違いである」とエーリッヒ・フロムはいっています。誰でもが人を愛せるとは限らないというのです。
「愛は学ぶ必要がある」とフロムはいいます。
愛は技術であり、いかに愛するかは、音楽や絵画、建築などの技術を習得するときと同じような仕方で学ばなければならないというのです。
では、どうやって学ぶのか? ひとつはその理論に習熟すること、もうひとつは実践ということになります。
愛を求め、愛こそがもっとも重要だという人は多いけれども、愛を手に入れるために努力している人は少ない。わたしたちぱ愛を得ることよりもずっと、経済的な安定や財産、社会的地位、名声などを得ることに大きな力を注
いでいるでぱないか。フロムはそのように指摘しています。
愛する自由はなにものによっても奪うことはできない。
愛を学ぶことの重要性を説いた心理学者のエーリッヒ・フロムは、愛の本質について次のように言っています。「愛とは活動であり、なにものにも強要されない自由な力の実践である」と。
結婚や性的な関係は強要できますが、愛を強要することはできません。愛する自由はなにものにも奪われないのです。それゆえ、愛は受動的な感情ではなく、積極的な活動性であるということになるわけです。
「愛は奪うものではなく、与えることである。けれども、多くの人は愛されることは望んでいも、愛を与えることを惜しみ、愛することを拒んでしまうことがある。愛に関する大きな誤解は、与えることで自分が貧しくなると考えられているところにある」と、フロムは指摘しています。
なかには「与える愛は犠牲であり、それゆえに美徳とされる」と考える人もいます。しかし、フロムはこれも違うといっています。「与えることは同時に受けること」を意味しています。それゆえ、「与えることはそれによって自分自身が豊かになることだ」とフロムは言っています。
たとえば、教師が学生によって教えられるように、舞台俳優が観客によって刺激されるように、与えることは潜在力の表現であり、それ自体が喜びとなります。
ボランティア活動などもそうですね。自分の時間や労力を人のために用いることによって、自分は与える側のようだけれど、じつはその活動によって得るものは多い、むしろ得たもののほうが多かったという人もいます。
フロムの考える愛の基本要素
フロムは愛の基本要素として、配慮、責任、尊敬、知識の四つをあげています。
配慮は子どもに対する母親の愛においてもっとも明らかに示されています。幼児を世話する母親はさまざまな配慮を欠かしません。それは愛するものの生命と成長そのものに、積極的にかかわることを意味しています。
人は積極に愛する対象に関心を持ち、愛するもののために働きます。そこには同時に「責任」も伴います。責任は義務ではなく自発的な行為です。
そして、愛するものに対する責任は、愛するものに対する「尊敬」によって、支配欲や所有欲からまぬがれるものとなっています。尊敬とはその人をあるがままにみて、その個性を知るという能力であるといわれます。
相手を尊敬するためには、その人を知っていなければならないので、ここで「知識」というものが必要になってきます。そこで、愛は相手に対する積極的な介入であるとも考えられます。
フロムの考えでは、このような要素を必要とするため、愛することは精神的に成熟した人にしかできないということになります。
さらに、フロムは愛するとは本質的に「意志の行為」であるといっています。それは自分の生命をもうひとりの誰かに完全にゆだねるという決断の行為であるというのです。
したがって、愛が自然に生まれてくる感情だというのは、過った見解であるということになります。愛が感情であるに過ぎないなら、それは決して長続きはしないということになるでしょう。
いかがでしたか。あなたはフロムの考えに賛成できますか?
この愛についての考え方はちょっと難しいところがあったかもしれませんが、現実に照らし合わせてみても、付き合っている相手にたいして、配慮や責任を伴わない関係、相手を尊敬できない、尊敬しない、相手のことをほとんど知らない、というような場合。そこに愛が成り立つかどうか?
あなたが自分を好きになってくれた人に対して、都合のいいように扱うとか、相手のことを配慮しない、人として尊敬していない、相手がどんな人か知らない、理解したいとも思わないというとき。あなたはその人に対して、愛はないのでしょう。
また、たとえば、付き合っている人から、メールやSNSで連絡をとっても、無視されるとか、いつまでたっても返事が来ないというような場合。相手はあなたに「配慮」していないし、もしも深い関係になった相手から、返信がないような場合は、相手はあなたに対して「責任」をもたないわけで、あなたに敬意を払っていないということにもなりますね。
そこに愛はあるでしょうか?
参考図書=『愛するということ』 新訳版:エーリッヒ・フロム